食器棚の上部と食器を片づけました。
食器棚は、何度も片づけているので、ごちゃついてもおらず、スッキリしているように見えるのですが、ほとんどが不用品だと判明。
あってもなくとも困らないようなものは断捨離しました。
今回、食器棚を片づけている中で、ひとつ気づきがありました。それは、シンプルで豊かな暮らしとは、結局コレではないのか?ということです。
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食器棚の上部の片づけ
食器棚の上に置いてあった①から④を片づけました。
①ホットプレート
何年も使っていません。
②お菓子作りの道具
子どもがバレンタインデーの時に使った道具です。本人はすでに忘れているご様子。
③黄色い箱
中身は、未使用の食器です。湯のみ茶碗です。
④青い袋
この中身はタンブラーです。
未使用の食器は、実は食器棚の上以外にもあります。廊下のクローゼットです。
ここに入っている食器も、ほとんどすべてが、未使用の湯のみ茶碗。
湯飲みなんて、今使っているるものも何種類もあり、使い切れずにいます。
これほどの未使用のものがあると、家族の中に、湯のみ茶碗のコレクターがいるのか?というレベル。
なぜ、これほどまでに湯のみ茶碗が出てくるのかと言えば、
実家の近所に、女性の陶芸家で住んでいて、彼女と母親が仲が良く、予備で焼いた食器をよく頂きます。そのおこぼれがわが家にも回ってくるからです。
帰省する度に、母が、お土産にいくつも持たせてくれました。
買えばそれなりのお値段のするものですから、もらうのも何となく嬉しく、だから捨てる気になりませんでした。
ここで私は、自分の中の大きな勘違いに気づきました。
それは、「ものは財産だ」と考えていたことです。
ものは財産という大いなる誤解
使うアテのない、陶芸家の作った未使用の湯飲みを、大事に持ち続けている理由は、
「うちは、値のはるものを持っているんだぞ」
「買えば高いものだから、わが家の財産だ!」
と思い込んでいたためです。
陶器に限らず、私はものを持つことで豊かになったような気がしていました。
生活するのも大変なほど、ものに溢れた家で暮らしていたに、それが「豊かさのあかし」だと思っていたというから感覚がどうにかしていたのですね。
ものは、使ってこそ生きるもの。財産ではなくて「道具」だということに、ここ最近、ようやく分かってきました。
ものを身体の一部になるまで使いこなしていますか?
プロの職人さんは、道具を大事に使い、自分の身体の一部のように使いこなしています。それが道具としての本来の役目。
家の中にあるものも職人さんのように使いこなしてこそ本望ですよね。
プロの職人さんが、匠の技で何かを作り出すように、私たちも道具を使いこなして暮らしを作り出す。
鍋釜から輪ゴム一本に至るまで。
ものを道具として使いこなすことが、創造的な暮らしに通じていたのですね。
それは、「使い捨て」こそが、効率の極みみたいな考え方では、何百年かかっても実現できない暮らしです。
シンプルで豊かな暮らしは、ものと人とのハーモニーが作り出す
暮らしは、ものと人が関わり合ってこそ成り立つもの。ものは人が暮らしやすくするための道具です。
その道具を、私たちが毎日のように使いこなすことで、創造的な暮らしが生まれて行くというわけです。
シンプルで豊かな暮らしとは、ものを道具として、日々使いこなすこと。そうやって道具を使いこなして行く中で、何気ない毎日の暮らしに、意外性や発見、感動を見つけることではないかと思ったんですね。
ものは単なる道具。
その道具に、財産だとか、思い出だとか、ツキを呼ぶものとかという意味づけや役目を勝手につけることで、暮らしを複雑化して難しくしているのかもしれません。
道具と人とのハーモニーが暮らしであり、豊かな気持を育ててくれるんじゃないかなと思った次第です。
だから、陶芸家に頂いた、使い切れない湯飲み茶碗は、そろそろ手放しても良いと判断。
今後は、まだまだわが家に眠る、余計なものをどんどん捨てていきます。
食器棚のビフォーアフター